2024.05.08 Wed
関市

心のふるさと ─ 岐阜・父

あらゆる色を含む墨で独自の抽象表現をする篠田桃紅。岐阜を心のふるさととしてきた桃紅は、2013年3月に100歳の誕生日をむかえる現在も、墨に対する好奇心は果てなく、精力的に制作活動を続け、洋の東西を越えて普遍的な美を提示し続けている。

世界が認める美術家・篠田桃紅と岐阜との縁は深い。桃紅は、1913年中国の大連(旧満州国大連)に、父・頼治郎(当時、東亜煙草株式会社大連支店長)と母・丈子の三男四女の五子として生まれた。2歳になる前に帰国するが、満州で生まれたことから満洲子と名づけられた。「桃紅」は父がつけた雅号である。大連で生まれ、東京で育った桃紅にとって、岐阜は暮らしたことのない土地ではあるが、父の生家が長良川の上流に近い、岐阜市芥見(旧芥見村)にあったため、桃紅の本籍は最近まで岐阜にあった。折に触れて岐阜を訪ね、父のふるさとへの愛着を深めてきたという。

頼治郎は、慶応三年に芥見村で代々庄屋を務める家の長男として生まれた。篠田一族には、明治天皇の玉壐を彫ったという、篠田芥津がおり、当時居候していた芥津より漢学、印刻、書や水墨など東洋の伝統文化に関する教養を学んだ。幼いころより祖父から漢学を仕込まれた頼治郎は、何百かの漢詩を詠んだという。二十歳で芥見村長となるが、その後弟に家を譲り、東京に出ている。頼治郎は、季節の帰省や旅行以外に岐阜に戻ることはなかったが、桃紅は、父が常に郷里・岐阜を心の中に深く想い続けていたと回想している。普段より美濃紙やふるさとの食べ物を取り寄せ、毎年お盆や月見には岐阜ちょうちんを飾るなど、何かにつけて岐阜の風習を取り入れた家庭で育った桃紅は、自然と岐阜をゆかりの深い土地と感じるようになった。

桃紅がはじめて墨と筆を手にしたのは、6歳の時である。正月の書初めであった。それより父の手ほどきを受ける。厳格な父の儒教的教育方針の下で育てられ、漢詩や和歌、書といった中国や日本の古典の素養を身に付け、父の書架から見つけた古典の名筆の法帖を手本に、臨書を重ねたという。その後次第に、桃紅は抽象表現へ移っていくが、常に傍らにあった墨と筆を手放すことはなかった。“岐阜は心のふるさと”と語る桃紅の墨の発端は父から教えられたことで、桃紅の仕事の源流も、美しく、濃い「美濃」にあるのだ。

桃紅は、墨を磨るとき、戦前にあるひと夏をすごした飛騨の流れる川の清冽な水を思い出すという。また、長良川の鵜飼の、暮れきった頃の山裾に浮ぶ篝火と川の水、動と静、光と闇、そこにたゆたう時間と色彩、白と黒が織りなす世界に心惹かれるという。不動のものの中で燃え流れる火と水が、桃紅の心の中に今もずっとゆれ続けている。流れてやまぬ長良川の水のすがたを、自分の心のかたちにしたいと希い、その想いは、ふるさと岐阜を想う心につながっている。

冴えわたった一本の線、一点の墨は、長良川の清流のように涸れることのない水墨への想いとともに、線、かたちとなって、美しく、濃く結実されていくのである。