2024.04.19 Fri
関市

筆・墨・硯

マンションの階上階下に続く仕事場には、和紙を延べた机の横に、大きな硯、墨洗いの造りつけの棚には、穂が20センチほどもある筆や刷毛が200本以上並んでいる。

さまざまな種類の毛筆の中から、描きたいイメージによって筆を選ぶが、桃紅が最も好むのは、「性のない筆」と呼ぶ、芯がなく、操りにくい筆である。書きづらい分、ちょっとした心の翳りや迷いを敏感に捉え、思いがけない線やかたちが生まれるのだという。筆以外にも、こだわりをもって愛用しているものがある。それは、中国・明朝時代の古墨と宋端渓の大きな硯である。桃紅によると、高価な墨の価値は、墨そのものではなく、磨った墨汁にあるという。時間の経過によって生じた成分の変化が、墨線の重なりに、にじみの差と色の濃淡を生みだすのだ。また、縦65センチ横40センチの硯は、自然の石をあっさりと切り取っただけのかたちに装飾がほとんどないが、表面の目立てが細かく、明朝の古墨の色を最も引出すのだという。

大きな硯に新しい水を注ぎ、古墨を静かにおろす。 硯に墨をあてる音は静かさを深め、磨りおろされたばかりの墨の香りは、かたちが萌しはじめた気配を鮮明にさせる。東京の喧騒を遠くに聞き、桃紅は日々墨に向かう。