
2007年12月16日(日) 東京にて
司会、記録:宮崎香里(岐阜現代美術館学芸員)
撮影:近藤茂實
宮崎香里(以下 宮崎): 岡本会長は、書ではなくて抽象絵画へ移行する間の作品に魅力を感じたということですが、抽象画についてお話をうかがいたいのですが。
篠田桃紅(以下 桃紅): 一番もとになることですが、抽象画っていうのは、作家当人が、「これは何々ですよ。」って言ってはいけないんですね。ただ知らん振りして作品を出しておくものなの。本来絵ってそういうものだと思います。言葉で補わなければならないものじゃないんですね。それだけで完結しているもの。また、受け止め方は、千差万別。千人いれば千の受け止め方。それぞれ違うのよ。それが、抽象画の一番幅の広いところではないでしょうか。だれでもわかるもの、だれでも感じることができるものだから。ですから見る方がどれほど自由な想像力を羽ばたかせるか、ということにかかっているんです。
宮崎: 抽象画には想像の可能性があるということですね。
桃紅: そうね。抽象は、何にも押しつけないものだから。ひと言も。
宮崎: 抽象というものは、何も押しつけないもので、想像の可能性を持っている。それは、先生が本来、作品にタイトルはつけないということの根底にあるものでしょうか。
桃紅: 本当、そうなんです。作品にタイトルをつけると、その範囲内になっちゃうのよね。自由に私は見る。という人でも、そのタイトルに引っかかるわよね。そこにタイトルが書いてあれば。だからそれだけ範囲が狭まるのよ。見る方の想像力の範囲が。だから見る人の想像力にゆだねるのが本当の抽象画です。特に私は作品を説明したくないの。なんだろうなんだろうでいいんですよ。何でもいいんです。所詮その方の経験の範囲内の想像力でしょうけれど、その想像力っていうものに刺激を与えているわけですから、そして結局見る人の経験とか想像力の範囲を出られないのですが、その想像の範囲の中のものをまた別の次元のところに引き出す役割をしているのです。いくらこちらの絵が優れていようとだめであろうと見る人次第です。タイトルをつけたりするのは見る人を小ばかにした証拠だと思いますね。
岡本太一(以下 岡本): 比較的同じような話を李禹煥さんがされてまして、彼も、「私が考えている事なのだが、それに題をつけると、見る人が題に引っ張られてしまう。であれば、題を付けない方がもっと広範囲に有意義に見てもらえる。」と言っています。
桃紅: 私がタイトルをつけて作品を発表した時に、ニューヨーク・タイムズのジョン・キャナディっていう有名な批評家が、「私は非常に残念だ。私の想像力で見たかった。題名はいらない。」とニューヨーク・タイムズに書いたんです。私、その記事を今でも持っていますよ。やっぱりジョン・キャナディっていう人はすごいと思いました。それ以後、私は、題はつけないと思いました。またベティ(ベティ・パーソンズ=ニューヨークの画廊主)もつけなくていいって言ってたんです。でも見にいらっしゃった方から問い合わせがあって、題がないとわからないということで、結局つけることになりました。しかしタイトルは番号のように全く実用的な意味でつけているつもりです。ただその絵の下に麗々しくつけないで、作品の裏や額縁の側面につけておこうと。
岡本: なるほど。
桃紅: ニューヨークにはあの当時ギャラリーが400あったんですね。400のギャラリーっていえば回れないくらいですよ。で、ニューヨーク・タイムズの日曜版にしか絵の批評は載らないんですね。それで、キャナディが個展に来てくれるかどうかだけで大変なことなんです。400もあるんですから。400ある中で10ぐらいの良いギャラリーにしかキャナディは来ない。だからその10のギャラリーで個展をしなければいけないってことも当時の画家たちは知っていたんです。でもそれもなかなか実現しない。ベティのところなどは、毎日のようにいろんな画家が持てる程度の絵を持って見せにきていました。ベティは何時間かそれをみてましたが、ほとんどの画家に「一年ぐらい勉強してまたいらっしゃい。」って・・・。そんなベティのところで展覧会が出来たというだけで、すごいことでしたね。本当、私は運がよかったと思います。
春宵の色 桃の譜 より抜粋(ミュージアムグッズにて販売中)